【2022.03.11←←2011.03.11】
とりとめのない徒然&長文です
★昨日は普通に仕事だったけど、
その時刻には思いを届けたいと思っていました。
書類作成がキリになり、時計を見ると14:45。
時刻に合わせてトイレに行って
黙祷をしようと漠然と考えていたのですが
もう、トイレまで移動する余裕がなかったので
席に座ったまま目を閉じ、お祈りしました。
その時たまたま私を見た人は
私が居眠ってると思ったかも(^_^;)
目を閉じると、当時繰り返し流された映像が
浮かんできました。
ごめんなさい、だけど
黙祷を捧げられたのは
ほんの10秒か15秒だったと思います。
★その2、3分後、
斜向いのデスクで忙しく電話応対や
書類作成をしていた人が
一段落したように顔を上げたので
「震災の起こった時刻2時46分、
今さっき過ぎたところだよ」と伝えました。
仕事中なので多くは話せませんが
「何年になるんでしたっけ?」
と聞いてくれたので
「2011だったから、11年」「そっかぁ…」と。。。
長男と同じ年の彼女は
どんなふうにあの頃を過ごしたんだろう。
あの震災が私の心に深く刻まれているのは、
子どもたち二人が、
被害が深刻だった場所ではないにしろ、
少なからず影響があり、
私と離れていたから、連絡がないから、
「ワカラナイ」という不安な思いが
あったからかもしれない。
★後に長男から送られてきた写メで、
道路に亀裂が入り、
大学の大きな美術室の大きな石膏像が
ことごとく床に倒れ、壊れているのを見たときに、
筑波でもこんなに被害が酷かったのだと知り
震えて涙が出てきた。
長男はアパートには戻れず、
備蓄の食べ物や水を持って、
先輩の大きな部屋に仲間が集まり、
しばらくの生活をした。
その後こちらに戻ってきた長男と
スーパーに買い物に行くと、
長男はひとつひとつ手に取り産地を確認し
籠に入れるようになっていた。
胸が苦しくなった。
放射能汚染を気にしていたのだ。
命の問題と比べられるものではないけれど…
大学の入学式卒業式には行かなかったので
これが最後だから大学院の修了式には行くぞ
と思っていた私の夢も叶わないまま終わった。
高卒の私としては大学は憧れの場だった。
★その時次男は秋田にいた。
ライフラインは数日影響があったようだけど
大きな被害はなく、
施設設備の点検を急ぎ、
皆さんにお風呂の提供だけでも早くしたいと
奮闘していたようだ。
直後には1度電話が繋がるも、その後繋がらず、
連絡もこず、私が心配していることを知った
次男の勤め先のスポクラの会員さんが
ブログのコメント欄で
次男の様子を知らせてくださったのだ。
また私の知り合いから、親戚の方が被災地にいて
物資を送りたいけれど、
こちらからの宅配はまだ道路の問題もあり
ままならず困っていると投稿すると、
次男の件で連絡をくださった方が
「秋田からなら静岡から送るより届きやすいはず」
と品を整えて送ってくださったこともあった。
本当にありがたかった。
★この1年ちょっと前に出会い、
応援していたHIROくんが
念願のキャラメル包みのCDをリリースしたのが
2011年2月14日で、
この頃はそれまで以上に精力的にライブをしていた。
そしてHIROくんは震災の翌日にあったライブ以降
しばらくの間、
CDの売上げは被災地の方々への寄付とした。
CDの制作にもお金が掛かって、
やっと手にしたCDだったにも拘わらず
その決断と行動の速さに
私はそれまで以上にHIROくんが好きになった。
実はこの3月15日のライブに行くつもりだったけど
その気持ちになれずにいると
それを察してかHIROくんからも
「来れなくても大丈夫ですから」
と連絡をもらった。
が、それを
「こんな時だからこそ逆にライブに行って
みんなの顔を見て安心しよう」
と言って連れ出してくれたのは、なかさ1だった。

★この日からどのくらいしてだったろう。
我が家はテレビのコンセントを抜いて
ラジオ生活になった。
映像のインパクトが強すぎたから。
地デジに変わってもテレビを買わずに
どれくらい過ごしたろう。
もちろん色々な情報はラジオからも
新聞からも入ってくる。
忘れたいとか目を逸らしたいわけじゃない。
ありがたいことに橋本薫くんが
ずっと路上ライブをしながら
募金活動をしてくれていたので
どこに寄付するよりも信頼がおけ
その時によって
どんな少額でも気兼ねなくできる寄付には
本当に助かった。
おかげで被災地や被災者への気持ちは
持ち続けられたと思っている。
薫くんが、機会があれば自分の目で
被災地を見て欲しいと言っていたのが
ずっと心にあり、
もう認知症を発症していたなかさ1を隣に乗せ
岩手まで行き、献花をし、
秋田を回って帰ってきたのは
私が倒れる3ヶ月前のことだった。
この身体ではもうたやすくには行けない。
だからそのタイミングで南三陸に行けたこと、
本当に良かったと思っている。
そして早くコロナが収束して
薫くんの歌が街に響き、
これからも震災後の復興の様子を
知らせてくれますように。
薫くんが、遺構となった防災庁舎で
ご家族を亡くされた方から伺ったお話をきっかけに
作った曲「天国への階段」と最近の映像を重ねた
作品になっています。
どうぞお聴きくださいませ。
とりとめのない徒然&長文です
★昨日は普通に仕事だったけど、
その時刻には思いを届けたいと思っていました。
書類作成がキリになり、時計を見ると14:45。
時刻に合わせてトイレに行って
黙祷をしようと漠然と考えていたのですが
もう、トイレまで移動する余裕がなかったので
席に座ったまま目を閉じ、お祈りしました。
その時たまたま私を見た人は
私が居眠ってると思ったかも(^_^;)
目を閉じると、当時繰り返し流された映像が
浮かんできました。
ごめんなさい、だけど
黙祷を捧げられたのは
ほんの10秒か15秒だったと思います。
★その2、3分後、
斜向いのデスクで忙しく電話応対や
書類作成をしていた人が
一段落したように顔を上げたので
「震災の起こった時刻2時46分、
今さっき過ぎたところだよ」と伝えました。
仕事中なので多くは話せませんが
「何年になるんでしたっけ?」
と聞いてくれたので
「2011だったから、11年」「そっかぁ…」と。。。
長男と同じ年の彼女は
どんなふうにあの頃を過ごしたんだろう。
あの震災が私の心に深く刻まれているのは、
子どもたち二人が、
被害が深刻だった場所ではないにしろ、
少なからず影響があり、
私と離れていたから、連絡がないから、
「ワカラナイ」という不安な思いが
あったからかもしれない。
★後に長男から送られてきた写メで、
道路に亀裂が入り、
大学の大きな美術室の大きな石膏像が
ことごとく床に倒れ、壊れているのを見たときに、
筑波でもこんなに被害が酷かったのだと知り
震えて涙が出てきた。
長男はアパートには戻れず、
備蓄の食べ物や水を持って、
先輩の大きな部屋に仲間が集まり、
しばらくの生活をした。
その後こちらに戻ってきた長男と
スーパーに買い物に行くと、
長男はひとつひとつ手に取り産地を確認し
籠に入れるようになっていた。
胸が苦しくなった。
放射能汚染を気にしていたのだ。
命の問題と比べられるものではないけれど…
大学の入学式卒業式には行かなかったので
これが最後だから大学院の修了式には行くぞ
と思っていた私の夢も叶わないまま終わった。
高卒の私としては大学は憧れの場だった。
★その時次男は秋田にいた。
ライフラインは数日影響があったようだけど
大きな被害はなく、
施設設備の点検を急ぎ、
皆さんにお風呂の提供だけでも早くしたいと
奮闘していたようだ。
直後には1度電話が繋がるも、その後繋がらず、
連絡もこず、私が心配していることを知った
次男の勤め先のスポクラの会員さんが
ブログのコメント欄で
次男の様子を知らせてくださったのだ。
また私の知り合いから、親戚の方が被災地にいて
物資を送りたいけれど、
こちらからの宅配はまだ道路の問題もあり
ままならず困っていると投稿すると、
次男の件で連絡をくださった方が
「秋田からなら静岡から送るより届きやすいはず」
と品を整えて送ってくださったこともあった。
本当にありがたかった。
★この1年ちょっと前に出会い、
応援していたHIROくんが
念願のキャラメル包みのCDをリリースしたのが
2011年2月14日で、
この頃はそれまで以上に精力的にライブをしていた。
そしてHIROくんは震災の翌日にあったライブ以降
しばらくの間、
CDの売上げは被災地の方々への寄付とした。
CDの制作にもお金が掛かって、
やっと手にしたCDだったにも拘わらず
その決断と行動の速さに
私はそれまで以上にHIROくんが好きになった。
実はこの3月15日のライブに行くつもりだったけど
その気持ちになれずにいると
それを察してかHIROくんからも
「来れなくても大丈夫ですから」
と連絡をもらった。
が、それを
「こんな時だからこそ逆にライブに行って
みんなの顔を見て安心しよう」
と言って連れ出してくれたのは、なかさ1だった。

★この日からどのくらいしてだったろう。
我が家はテレビのコンセントを抜いて
ラジオ生活になった。
映像のインパクトが強すぎたから。
地デジに変わってもテレビを買わずに
どれくらい過ごしたろう。
もちろん色々な情報はラジオからも
新聞からも入ってくる。
忘れたいとか目を逸らしたいわけじゃない。
ありがたいことに橋本薫くんが
ずっと路上ライブをしながら
募金活動をしてくれていたので
どこに寄付するよりも信頼がおけ
その時によって
どんな少額でも気兼ねなくできる寄付には
本当に助かった。
おかげで被災地や被災者への気持ちは
持ち続けられたと思っている。
薫くんが、機会があれば自分の目で
被災地を見て欲しいと言っていたのが
ずっと心にあり、
もう認知症を発症していたなかさ1を隣に乗せ
岩手まで行き、献花をし、
秋田を回って帰ってきたのは
私が倒れる3ヶ月前のことだった。
この身体ではもうたやすくには行けない。
だからそのタイミングで南三陸に行けたこと、
本当に良かったと思っている。
そして早くコロナが収束して
薫くんの歌が街に響き、
これからも震災後の復興の様子を
知らせてくれますように。
薫くんが、遺構となった防災庁舎で
ご家族を亡くされた方から伺ったお話をきっかけに
作った曲「天国への階段」と最近の映像を重ねた
作品になっています。
どうぞお聴きくださいませ。